2016年06月29日

47回定期演奏会終えて

運営委員長Uです。
先日は雨天にもかかわらず八幡市民オケの第47回定期演奏会に多くのお客様がお越しくださいました。この場を借りてお礼を申し上げます。

今回、個人的には「いつもの少し背伸びした選曲と比べると比較的おとなしいプログラムだ」と思っていたのに、やってみると意外に苦戦しました。3曲ともなかなか身体に入らず、積み木をガタガタに積み上げたような演奏から抜け出すのに時間を要しました。梅雨明けの予報みたいですが、ああ抜け出したんやなと気付いたのは本番1週間前のホール練習でした。もともと仕上がりが遅いのが以前からの課題なのですが、今回は特に遅かったような・・・。

さて、私たちは前日リハはもちろんのこと、空いていれば1週間前の集中練習も本番ホールを使用して行います。いつもの練習場と違う響きを客席で聴いたり、録画や録音をチェックしたりして、事前により良い演奏のためのイメージ作りをすることができるのはとても幸せなことです。前述の通り、今回も1週間前はホール練習でした。その録音を聴いて「あれ?思ってたほど悪くないじゃん」となったのでした。もう少し早くこのレベルに達していれば更に深い表現を探求できるのになと毎回思うのですが、なかなかうまくいきません。これは私たちに限らずアマオケの宿命的課題ではないかと思います。

さて次回は11月。また背伸びと言われそうですが、濃厚な3曲に取り組みます。
フォーレ 組曲「ドリー」(アンリ=ラボー編曲のオーケストラ版)
ヒンデミット 交響曲「画家マティス」
ベルリオーズ 幻想交響曲

いやー、次も楽しそうです。(^o^)
ホルン宇野
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2016年06月07日

初トレーナー

今回初めてトレーナーに就任し、大役を引き受けさせていただきました。
私個人としては、テンポ感のわずかな違い等の指摘を常に受けたこともあり、満足のいく出来ではありませんでした。動画で自分の指揮を見返してみると、それが虚実に現れている回も少なくありません。
私のトレーナーとしての今後の課題は、いかに楽曲を熟知して臨めるかに尽きます。「橋本はちゃんと曲を勉強しているのか」、「橋本がトレーナーになってから練習の質が落ちた」、このような批判は必ず出てくると思います。そうならないよう、次回のドリーに臨みたいと思います。
本番、そして次回の幻想、画家マティス、全力で取り組みましょう!
橋本怜補
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2016年06月02日

プロコフィエフ 音楽はだれのために?

いよいよ来週に迫った八幡市民オケの定期演奏会、メインはプロコフィエフの交響曲第5番です。
第3楽章の真ん中あたりで、オーボエやトランペットなどが八分音符をスタッカートで空疎に響かせる部分があり、指揮者の森口先生がここについて「虚無感」という表現をされ、「プロコフィエフの戦争ソナタに通ずるものがある」というようなコメントをされました。

プロコフィエフの戦争ソナタとは、ピアノソナタの第6〜8番のことを指します。作曲者が名付けた訳ではなく、第二次世界大戦の最中に作曲されたことから、後世になりそう呼ばれたものです。この3曲のソナタのうち、どこが虚無的なんだろう?と、他の団員と少しやり取りしたのですが、交響曲5番の3楽章の当該部分以上に虚無的な箇所はないのではないか?とのご意見、私も概ね同意します。

私はプロコフィエフが大好きで、交響曲以外にもピアノソナタやピアノ協奏曲などを良く聴きますが、このようなやり取りをしているうちに、実はプロコフィエフのことをあまり良く知らないことに気付きました。せっかくなので少し勉強しようかと、八幡市の隣の某市立図書館のサイトで検索したところ、「プロコフィエフ 音楽はだれのために?」(ひのまどか著、リブリオ出版)という本がヒット。なんと児童書なのですが、借りて読んでみると、大変詳しく興味深い話が多く書かれており、また貴重な写真もたくさん載っていて、あっという間に読み通してしまいました。
プロコフィエフがたまたま日本に立ち寄り、数ヶ月滞在することになった際のエピソードなども、とても面白く、これを採り上げたブログもあったのでご紹介します。
http://blog.goo.ne.jp/hirochan1990/e/b6e4a025432693317eb6376a49132a82
その他、特筆すべき(というか私が気に入った)エピソードを少しご紹介します。

・プロコフィエフは13歳でペテルブルク音楽院に入学したが、喧嘩好きで無鉄砲、反抗的でとことん辛辣。入学以来十年間、音楽院中にゴタゴタを引き起こしてきた。その被害者は、音楽院院長のグラズノフやリムスキー=コルサコフ教授など。卒業試験では自作のピアノ協奏曲第1番を演奏、賛否両論の中、見事に一等賞を獲得し、賞品として新品のグランドピアノを手に入れた。

・プロコフィエフ母子のアパートはペトログラードにあり、作曲に行き詰ると外に飛び出し、チェス会館に飛び込むと、居合わせた友人や知人にチェスの試合を挑んだ。「チェスと作曲には共通点が多い。共に、計算と、情熱と、闘争の世界である」というのが彼の持論。エネルギーレベルが異常に高い彼にとっては、チェスのような頭脳競技が最高の気晴らしになった。1917年2月の「二月革命」時は、アパートの中にいても銃声が聞こえ、プロコフィエフはじっとしていられず、町に出て、建物の陰から反乱軍の兵士たちと政府軍の撃ち合いを、興奮に震えながら見ていた。

・日本滞在後にアメリカに渡り、ニューヨークで自作を売り込み、ピアノリサイタルを開いたが、実は保守的なニューヨークの聴衆や批評家は彼の音楽を理解せず、散々な反応。この地の会員制クラブで日本の作曲家、山田耕筰に出会い、激論を交わす。論争に負けたプロコフィエフは山田を認め、自作の演奏会に山田を招待したところ、山田はプロコを絶賛、固い握手を交わした。ニューヨークで認められないプロコは、知人の紹介でオペラ「三つのオレンジへの恋」をシカゴで初演することになったが、初演数日前に指揮者が急死。やむを得ず上演延期に。

・新たな活躍の場を求め、パリに渡る。バレエ「道化師」のパリ初演の成功を記念して、画家マティスがプロコフィエフの肖像画を描いた。

・ロシアに凱旋帰国したプロコフィエフは熱烈歓迎を受け、演奏面で大成功を収めたが、スターリン独裁が進み、先進的な音楽家も迫害を受けるように。国に不満を持つ妻との間が険悪になり、仕事仲間の女流詩人と愛し合うようになり、家族と別居し女流詩人と同居。1941年7月にはドイツ軍によるモスクワ空襲が始まり、トルストイの大作「戦争と平和」のオペラ化に取り組んでいたプロコは戦争に直面することで、オペラのどのシーンも身近で具体的なものになった。戦争はプロコフィエフの性格を変え、以前見られた横柄さや冷淡さは消え、気取らない、温和で思慮深い人間になった。かつては氷と火の表情しか持たなかった瞳の奥に、柔らかい光が宿っていた。

・1948年2月、プロコフィエフに共産党の中央委員会総会への参加要請が来た。他にはショスタコーヴィチ、ハチャトリアン、カバレフスキーなども来ていた。スターリン腹心のジダーノフが以下の決議文を読み上げた。「わが国には、粗野で、俗悪で、人間の正当な精神活動を破壊する、聴くに耐えない音楽を書く人間が存在する。彼らは恥ずべき形式主義の作曲家であり、音楽における反人民的犯罪者である。党中央委員会は先のソビエト音楽活動家代表者会議で、出席した音楽家に名簿を送り、その中に潜む犯罪者の告発を求めた。多くの音楽家が、ブルジョワ的傾向のある形式主義作曲家だとして名指ししたのは、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ミャスコフスキー、ハチャトリアン、カバレフスキー…」これに対し、プロコや他の作曲家は「自己批判の手紙」を書き送った。プロコの作品は演奏禁止となり、精神的・経済的に大きな打撃を受けたが、唯一、バレエ「ロミオとジュリエット」だけは、あまりに人気が高かったので例外となった。この苦難の時期に、プロコを崇拝する若きチェリストのロストロポーヴィチとの出会いがあり、彼のために新たなチェロのための作品を作曲した。その後、組曲「冬のかがり火」で四回目のスターリン賞を受賞し失地回復。しかし病気が悪化し、アパートで脳溢血により急死。奇しくも同じ日に、国の最高指導者であるスターリンが同じく脳溢血で急死。モスクワは大パニックになり、プロコの急死を知った友人がアパートに向うも、モスクワめがけて殺到した人の波でなかなかたどり着けず、柩を葬儀場に運ぶのにも何時間もかかった。花という花はスターリンのために買い占められ、プロコのためには一本も残っておらず、柩に飾ることができたのはモミの木の小枝だけであった。

他にも興味深い話がたくさん載っています。プロコを知りたい方には必読の書と思います。
これを読んでから演奏会にお越し頂けましたら、交響曲第5番もまた違って聴こえるかもしれません。

ティンパニ奏者
posted by 八幡市民オーケストラ at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記