2017年06月25日

トロンボーン吹きが「??」になるトロンボーンの話

⑴行き過ぎ?な「おこだわり」

トロンボーンの何が良いって、そりゃ私にとってはビンビン鳴るところです(トロンボーン奏者によって異論あり)。ちょっと昔のF1に例えれば、安定のアラン・プロストより、無冠の帝王ナイジェル・マンセルを崇拝するが如しです。限界ギリギリのシビレるようなドライブ!!時にはスタートで軽くホイルスピンするが如く音の頭が「ガッ・・・」といってほしい時ってあるじゃないですか(日本車にありがちな「横滑り防止装置」などつまらん)。もちろん音が小さくてソフトな時でも、とにかく鳴りがいいに越したことはありません。

よりビンビンに鳴らす為に奏法にも磨きをかけるべきなのですが、楽器そのものもよりビンビンにしたいものです。

ここで本来のトロンボーンの形をよく思い浮かべて下さい。最近でこそバルブが1個(バストロは2個の場合多し)ついている楽器が主流ですが、本来はスライドで音程を取るので、他の金管楽器なら必ずバルブとそれに繋がる管がいくつかあるところ、そんなものは「ない」のがもともとの姿(何も付いてない普通のトロンボーンはテナー、一方バストロンボーンじゃないのにバルブが付いてる楽器を俗にテナーバスなどと日本では呼びますので、バルブなし無印の「正に」テナートロンボーンの事をはっきり区別するため、私は勝手に「どテナー」と呼んでます=写真1)。IMG_0315.JPG
とにかく「鳴ってない管などは楽器にくっつけない」ことが理想なのです(ホルンもトランペットもチューバもバルブを全部押す音を出す時以外、ほとんどの間「全く鳴ってない管が響きを邪魔する単なる重りとして楽器にくっついている」わけです。これはいけてません)。

さらに楽器を支える支柱とスライド部分の管が二重になるのは必要最低限仕方がないとして、それ以外のパーツは出来るだけ「何にもないに越したことはない」んだろうと考えています。そんな理由で私はバルブが1つもついていない楽器もついつい買ってしまって持っていますが、通常そういった「どテナー」は前後の重さのバランスを取るため、後方のチューニング管の支柱に重り(カウンターウェイト)が付いてるところ、これも取り払って余計な重量物は出来るだけ無くすようにしています(外したウェイトの写真をここで載せたかったのですが、ずっとつけてなかったので紛失してしまったようです=写真2)。IMG_0314.JPG
またスライドの先には「石突き」と呼ばれるゴムが付いてるんですが(お休み中、ずっと手で支えているのは大変なので、ここを床に付けています)、これも本番を中心にしばしば外しています。そうして楽器全体がよりビンビン鳴って、音を止めても手や唇にその響きが「ズゥ〜ン」と残るのが何より気持ち良く感じています。

ちょっと方向が違いますが、このプロの方も同類でしょうか?
http://yoshikawa.sblo.jp/article/62669015.html

しかしまことに遺憾ながら、現代のオケでは、機能的・音域的にトロンボーンでも最低1つのバルブ(及びそれに繋がる管)が必要な時代です。比較的音域が高く狭い、またアクションも激しくない古典的な曲の1stトロンボーンなどを任された場合は、前出のバルブ無し「どテナー」を使いますが、なかなか毎度そればかりというわけにもいきません。しかし1回の演奏会で数ヶ所しか使わないバルブとそれに繋がる管(以下、合わせて「バルブセクション」)を搭載することで、当然、かなり重量が増える上、管がグニャグニャ曲がってしまったり、本体とバルブセクションを繋いで支える部分をあちこち作ることになったりするので、そこら中で響きを抑えられてしまい、理想から離れていってしまいます。

しかし世の中賢い方がいるモンで、バルブの中で出来るだけ小さくクネクネしないようにすれば、抵抗感がなくなってバルブがない楽器 に近い「オープンな響き」が得られるとして、より直線的に切り替え出来るようなバルブが開発され、だんだん普及してきました。私としてはこの流れに乗ってバルブ付きの楽器は、いわゆる「セイヤーバルブ」とか最近の言い方で言えば「アキシャルフローバルブ」いうものが搭載されたものを使っています。

しかしここ数年、世界のトッププロは「適度な抵抗感」を求めて、再びホルンと同じような普通のロータリーバルブが主流に戻りつつあるようです(軟弱者め!!)。こうなってくるとひねくれ者の私としては逆に、「いくら直線的なバルブでも、バルブなしの楽器には及ばないはず」であるから世間のトレンドとは反対に、さらにもっとオープンであるべきと、ついに楽器を改造するに至りました。目の付けどころは、バルブセクションと本体を繋ぐパーツです。良く見ると2ヶ所でバルブを押しても押さなくても通る本体の管(主管)に直接繋がってしまっています。それでは主管の響きが抑えられてしまう。どうにかして取っ払いたい・・・

そこで2ヶ月ほど前、最新の色々な楽器の形状からヒントを得て、バルブセクションと本体を繋ぐパーツを工夫して直接主管には繋がず互いの支柱同士を束ねるような形にして支えることで、この2ヶ所の主管とのジョイント部分を省略する「改造」を実施しました(写真3〜6)。IMG_0313.JPGIMG_0312.JPGIMG_0311.JPGIMG_0310.JPG
もはや主管にはバルブ以外には「どテナー」と同じ支柱しか繋がっていません(バルブセクションは支柱同士で間接的に支えられている)。セイヤーバルブ付きの楽器でこの形のものは多分市販されていません(2ヶ所中1ヶ所だけ同じ仕組みのものはあり)。

で、音は良くなったのか?と言えば「微妙??」です。
同じトロンボーン吹きでもここまでやっちゃう人はちょっといないと思います。
でも気分いいです。まあ所詮自己満足です。
良いんです。趣味だから・・・



追伸
そう言えばマウスピースもイジってました(写真7)IMG_0309.JPG

うざくま
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2017年06月10日

リヒャルト・シュトラウス

次回演奏会のメイン曲は「英雄の生涯」ですが、皆さんリヒャルト・シュトラウスってご存知ですか?
彼は、かの有名なワルツ王、ヨハン・シュトラウスの親戚!

…ではありません。

R・シュトラウスは1864年ドイツ南部のミュンヘン(当時バイエルン王国の首都)生まれの指揮者・作曲家です。同年代の作曲家では1858年生まれのプッチーニ、60年のマーラー、62年のドビュッシーなどがいますが、1825年生まれのヨハン・シュトラウス二世とは何の関係もないそうです。
父フランツはミュンヘン宮廷管弦楽団の第1ホルン奏者。モーツァルトなどの古典音楽派で強烈なアンチ・ワグネリアン(ワーグナー嫌い)を公言していましたが、それにもかかわらず彼はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」や「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演で主席奏者を務めており、ワーグナー自身も認める程の腕前だったのです。彼は他にもヴァイオリン、ギター、クラリネットなど様々な楽器を演奏できたそうです。
母ヨゼファはビール醸造業プジョール家の娘ですが、プジョールは19世紀の終わり頃にはフランスやアメリカまで輸出する大企業になっています。

シュトラウスは音楽万能の父と裕福な母家という恵まれた家系に生まれたわけですね。父フランツの影響(とコネ?)でピアノは4才から、ヴァイオリンは8才、作曲も11才から、それぞれミュンヘン宮廷管弦楽団のメンバーから習っており、家でもフランツが同僚としょっちゅう弦楽四重奏をしていたり、フランツのピアノ伴奏をしたり・・と至れり尽くせりの音楽環境だったようです。
このような環境の中で、シュトラウスは7才の頃にはすでに「クリスマス・ソング」という曲を作曲しており、17才の1881年には交響曲ニ短調が、翌年には「13管楽器のためのセレナード」が初演され好評を博し、20才の1884年にはマイニンゲン宮廷管弦楽団で指揮者デビューも果たしたのです。
その後マイニンゲン宮廷管弦楽団、ミュンヘン宮廷歌劇場、ワイマール宮廷歌劇場、再度ミュンヘン宮廷歌劇場と各地の歌劇場のポストを渡り歩き、1998年にベルリン宮廷歌劇場の第一カペルマイスターに就任。この頃には既に交響詩「ドン・ファン」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」「ツァラトゥストラはかく語り」等を発表しており音楽家としてドイツ随一と言える程名を上げていますが、その後20年のベルリン時代では歌劇「サロメ」や「バラの騎士」でさらに大成功しています。書けば当たるヒットメーカーで、現在で言えば秋○康と言ったところでしょうか!?

交響詩「英雄の生涯」はベルリンに来た1998年に作曲されており、ベートーヴェンの第3番英雄交響曲を意識して書かれたものですが、この作品の「英雄」とはシュトラウス自身のことだそうです。
この曲は冒頭で<英雄>(=シュトラウス)のテーマが登場し、その後、英雄の足を引っ張ろうとする<英雄の敵>(=ミュンヘン時代にシュトラウスと敵対した歌手やオーケストラや批評家たち!)の描写や、独奏ヴァイオリンによる<英雄の妻>(=シュトラウスの妻、パウリーネ)の愛の歌が演奏され、さらには<英雄の業績>としてシュトラウスの過去の作品の主題がオンパレードで登場するのです。
ベートーヴェンの名曲をモデルにするだけでも大胆だと思いますが、自分をモデルにここまでするなんて、シュトラウスはものすごい自信家だったのかもしれませんね。

そんな背景を調べつつ、譜読みに苦労する今日このごろ。間違ってもウインナーワルツにはならないようにしたいものです。
Vn新人A
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2017年06月04日

楽譜と台本

第49回定期、無事終了しました。ウチとしてはプログラムがいつもより直球(ていうか普通)だったためか、いつもよりたくさんのお客さんが来てくださいました。この場を借りてお礼申し上げます。運営側としてはいつも通りやっておけばまあ大丈夫という自信と、イレギュラーなことが発生した場合はどうしようかという不安が半々な一日なのですが、まあ大きな不具合もなく終わることができてとりあえずホッとしています。個人的には今回も楽しい音楽の時間を満喫してたいへん満足でした。この満足感が無ければ運営なんてやってられん・・とか書いたらあかんですね。(web担当U嬢が「運営側の立場から書いてください」と言うので・・)

話は変わりますが、演劇における台本と音楽における楽譜って役割が似てるような気がします。両方ともそれぞれの出演者が発する台詞(= 音)と簡単な場面設定が時系列に沿って書かれています。さらに言えば、それを単純になぞるだけでは演目として成り立たないというところも類似点を感じます。逆に少し違う点は、台本はほぼ文字(言語)情報であるのに対し、楽譜は大部分が記号化されていることでしょうか。言語情報は感情やニュアンスを掴みやすいですが、記号化された音符はそうでもない。加えて、言語も記号も受け取り方は人それぞれで、記号化されている分、楽譜のほうが振れ幅が大きいのも頷けます。

ということで、記号化された音符を音にするとき、たとえば台本の台詞を発するのと同様に、そこに必ず感情や情景があることを忘れないようにしたいなと思うのです。記号化された音符を記号の定義のみで音にするとおそろしく無味乾燥な音の羅列ができあがることは、コンピュータに楽譜を入力して「演奏」させてみればわかります。某有名音楽大学の学生オケの演奏でもそうなっているのを聴いたことがあります。これはある意味、演奏技術が素晴らしく均一であることの証左でもあるのですが。(^^;;

さて、次回はシュトラウスの交響詩に取り組みます。40分も自分のことばかり話し続けるオヤジに成りきるのはかなり難しいと思いますが、そこにどのような思い出や誇張や後悔や自慢があるのかできる限り掘り下げていきたいと考えています。
いいんちょU
posted by 八幡市民オーケストラ at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記