2020年03月23日

音楽がノイズになるとき

先日一人でカレー屋へ入った。カレーの辛さやご飯の量、トッピングができるチェーン店だ。
遅い時間に見つけて初めて入った店だったが、店内は新しくきれいで、おしゃれな感じのジャズがBGMに流れていた。
時間のせいかコロナの影響か、ガラガラでお客は他に一組しかいなかった。

さて何を頼もうかメニューを見るのだが、特に今これが食べたいというわけでもなく考えがまとまらない。自分の頭がぼんやりしているのではなく、BGMに気が散っているのだ。
私は学生時分からジャズのビッグバンドで吹いてきたので、このジャンルの音楽はもちろん嫌いではない。
が、空腹とやや疲れて気分の優れないときに、聴きたい音楽ではなかった。
私はだんだんイライラしてきた。“食事をすることで心と体を休めよう”と入ったのに。

気にしなければ耳に入ってこない音量や、他のお客の会話のマスキングに役立っているのならともかく、“音楽を自分の意思に関係なく聴かされる。”これは拷問だ。百歩譲って表現しても「ノイズ」である。
私はカレーを食べに店に入ったはずだ。ノイズを聞きに入ったのではない。

私はこういうときは音量を下げてもらったり店を出ることもあるのだが、それも面倒に思えてそのままメニューを眺めた。このカレー屋は先述のとおり辛さも量も具も選べるのが特徴だ。それはとりもなおさず、お客がそのときの嗜好や体調に合わせたものを食べられる、ということである。

しかし当然のことながらBGMは、音楽ジャンルは無論、音量も、演奏者も曲も選べない。ONOFFさえお客の操作下にはない。
人間は時と場合によって聴きたい音楽は変わるのが当然で、“そもそも音楽を聞きたくないときもある。”

この状況は、いわばカレーに問答無用で注文していないコーヒーを掛けてくるようなものだ。
私ならカレーはカレーで食いたい、コーヒーはコーヒーで、飲みたいときに飲みたい。


店員さんは丁寧で愛想もよかったから、言えばBGMを切ってくれただろう。
しかし「〇〇しないでほしい」と表明することは心理的に面倒なものだ。相手から意外な顔をされることも多い。それは、良かれと思ってしたことを拒否されるわけだから無理もない。むしろ善意の否定と捉えられることもあり、場合によっては反発されることもある。

しかしその善意は本質的なものなのだろうか?サービスの名をかたる一方的な思い込みではないだろうか。
それを押し付けることはいわば“優しさの暴力”ともいえるものだ。

真綿で首を絞めるという言葉があるが、自覚がないまま相手の首を絞めてしまうことは恐ろしい。
本当に相手のためを思うのであれば、“相手の意思を尊重すること”こそが本質的だと私は思う。
人の心は往々にして捉えにくいことが多い。それでも関わり合っていくためには、“何も押し付けない「余白」”が必要ではないだろうか、と私は考えた。

「無いこと」の価値。それを考えているとますます腹が減ってきて、よりカレーが美味く感じられたのは怪我の功名といえようか。

Tp 山田潤
posted by 八幡市民オーケストラ at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記