2020年11月07日

第55回定期演奏会を終えて

昨年秋の演奏会でショスタコーヴィチの革命をやった頃、雑誌でヴァイオリンの荒井英治さんのインタビュー記事を見つけ、「ショスタコーヴィチを演奏する時にはいつも『この音が最後の演奏かもしれない』という気持ちで弾く」という意味の言葉に、身の引き締まる思いをしました。ショスタコーヴィチと彼の時代の切迫感を追体験しながら音楽に向き合わねばならないのだろうとは感じていましたが、まさか1年後、多くの演奏家、愛好家が、自分のものとしてこの言葉を噛み締めなくてはいけなくなるとは思いも寄りませんでした。
生活必需ではない不要不急の事柄として追いやられた多くの営みと同様に、音楽会、集まって演奏することを中止しなくてはならない生活が始まり、私たちの団体でも長期にわたり、通常の練習は見通しのつかないまま休止となりました。
音楽を生活としているプロの演奏家と違い、アマチュアのわれわれにはまた違った事情があります。練習再開に向け、たぶん多くの団員が悩んだのは「演奏を自分の生活の一番とすることへの遠慮」ではないでしょうか。実際、「生業とするプロでもないのに、趣味でやっているわれわれが活動を再開するなんて」という声が、周りからも、自分の心からも聞こえてきて、日々の雑多な情報に振り回されながら、日替わりで自分の気持ちがコロコロ転がるのを経験しました。

今回に限らず、仕事、家庭の事情、自身の健康などによって練習に参加できなかったり、年に数回しかチャンスのない本番をキャンセルせざるを得なかったり、と、われわれアマチュアの演奏活動は日常生活とのバランスがじつに難しい。こんなにも生活の多くの時間(とお金)を注いで、周囲にも理解と協力と犠牲を強いて、それでもなぜ、下手な音楽から離れないのか。それをして何が得られるんだろう、何が得られると思ってやっているのだろう。
今回の演奏会に幸いにも参加できたメンバーも、さまざまな事情で断念しなくてはならなかったメンバーも、この期間に共通して得た思いがあるとしたら、自分が演奏に携わる機会のかけがえのなさ、ではないでしょうか。そのような奇跡への感謝が、日々の生活をひたひたと喜びで満たしてくれる。そしてその日々があるから、また練習に向かうことができる。
同じメンバーで練習し、本番を迎えるのは大げさでなく一度限りです。ひとつのプログラムを一緒に作り上げ、演奏会を開くことの出来るこの大事な大事な時間をこれからも共有していけたらと切に願っています。

最後に、勇気がなくなったときに繰り返していた言葉を。
「好きはヘタより強い」
けっこうこれで乗り切れますよ。
運営委員ばば
posted by 八幡市民オーケストラ at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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